表門を入ると参道がまっすぐ観音堂に向かっています。現在の観音堂は天保6年(1835年)に再建されたもので、桁行三間、梁間四間総けやき、寄棟造り、桟瓦葺の大規模な建造物です。
観音堂の虹梁や欄干に見られる彫刻は精巧なもので、龍や獅子が彫られています。
内陣の格天井には、格間165枚に江野梅青(東松山市出身)の手になる花鳥の色彩絵が描かれています。 画題は花鳥68点、花木79点、鳥18点で、それぞれに寄進した当地黒須の人々の名前150余人が墨書されています。
庫裡に至る庭園は、観音堂の回廊からも見下ろせます。池を中心に自然石や燈籠が配置され、松、桜、楓、百日紅などが植えられています。
当寺所有の鰐口は直径約38センチメートル、厚さ約10センチメートル、重さ約5.2キログラム、古色をおび重量感にあふれた室町中期(寛正2年・1461年)の作品です。この鰐口の表裏には銘文が刻まれており、物師松本に造らせ、比企郡の千手堂に奉納されたもののようです。蓮花院伝来の理由は定かではなく、「新編武蔵風土記稿」の黒須村の項にも鰐口の所在について「比企郡千手堂村(現比企郡嵐山町千手堂)にある千手堂のものなるべけれどここに持ち来たりしゆえんは知らず」と記しています。かつて蓮花院の付近にあった真観寺の井戸から引き上げられたという伝承が残っています。
勧進帳は、「観音堂再建勧化牒」と題され、その序文に、蓮花院の縁起と観音堂再建発願の主旨が記されています。
天保4年癸巳年12月23日に発願されたものであり、願主現住隆光、隠居隆賓、世話人繁田武兵衛他4人、組頭水村夘兵衛他5人のほか寄付者の名前が多数記されています。
天文15年の火災により焼滅し、同16年(1547年)に鎌倉仏長慶の手により再建され、観音堂(本堂)に安置されています。60年に一度の時もありましたが、現在では毎年例大祭時にご開帳されています。